野口村の名主が野火止用水から分水を求めた(天明5年)2012年05月26日 11:38

 玉川上水・野火止用水から、東大和市域の村々では一滴の水の恩恵も受けませんでした。両用水の直接の利用から徹底してはずされています。しかし、玉川上水は別にしても、野火止用水からは位置的にも、充分利用できたはずです。当時の村人は腹に据えかねていたかも知れません。

 

 そして、飢饉の最中、野口村(東村山市)の名主が破天荒とも言える「願い出」をします。結論的に云えば、

「野火止用水から分水して水を供給すれば、「畑」を「田」にすることが出来るから、分水口を設けさせてくれ」

との願い出です。天明5(1785)10月のことでした。


 天明
3年、前年からの不作で、米価が上昇、春になっても寒く、多摩地方では不作が続き、飢え人が出始めました。加えて、冷夏、825日には浅間山が噴火と気が重い中、食糧不足の足しにと、代官から藁を利用した「藁餅仕法」(わらもち)が通達されます。

 あけて、天明4年、食糧不足が続き、岸村(武蔵村山市)では、総人口の3分の2が「夫食拝借」(食べ物を借りる)願いを出しています。東大和市も同じ状況であったと推察できます。

 このような状況を背景に、箱根ヶ崎の狭山が池に集まった農民が狭山丘陵南麓の物持ちを対象に「天明の打ち壊し」を起こします。一説に2~3万人が集まったとされます。東大和市でも油や肥料を扱っていた名主宅が打ち壊されました。

 そして迎えた天明5年には、正月早々、江戸で火事が多発し、物価上昇が続き、幕府はその引き下げに追われました。

 このような背景の中、野口村の名主勘兵衛が野火止用水から水を引いて、畑を田に代えたいとの願いを代官に出しました。

 

「乍恐以書付奉願上候

 

一、多摩郡野口村名主・勘兵衛が申し上げます。当村では、田と畑の問題が多分にあります。その地面を所持している百姓達は、年貢が米納であることから、甚だ難義しております。そのため、百姓が申合せ、数年らい、井戸による方法など種々工夫してきましたが、一切、水が渇れて、今後、何ヶ年たっても立返る様子は御座いません。

このため、恐れながら、私の考え(存付)を申し上げます。

 

 多摩郡奈良橋の地先にて野火留堀り、同郡小川村地先にて玉川御上水があり、二ケ所の内へ樋口を壱ヶ所、仰せ付け下されば、右用水路にて

 蔵敷分にて三町余、

 奈良橋村に五町程、

 高木村に五町程、

 後ヶ谷村に弐町程、

 清水村に三町余、

 廻り田村に拾町余、

 畑を田(畑田成)にすることが出来ます。

 

 当村(野口村)の地先より樋を入れ、堰口を設けるならば、

字前川にて畑を田に三町程変えることが出来、両三年の内に、田が畑になった場所(田畑成)は残らず、田に立返ると申し上げます。

 かつ、その残水を以って、字砂ノ川両岸にて畑を田に出来(畑田成)れば、

当村(野口村)にて三町余、

久米川村にて三拾町程、

入間郡大沼田村にて五町程、

多摩郡南秋津村にて弐拾町程、

入間郡北秋津村にて弐拾町余、

多摩郡野塩村にて五町余

が出来ます。右残水を以て野塩村の田が畑になったところは残らず立返ると申して居ります。

 

 そうすれば、右村々ひとえに助かると申して居ります。

 もっとも、町歩については概略の計算でありますから、書面の以外にも可能性があると思います。何れ、御見分下され、私へ仰せ付け下されば、右村々へ掛合い、畑が田になるように致します。これは、恐れながら、幕府の御益にもなろうかと存じ奉ります。ついては、別紙概略絵図の通り御吟味の上、詳細は口上にて申し上げます。ひとえに私へ仰せ付け下さいますように願い上げます。以上

 

            天明五巳年十月

                 多摩郡野口村

                    願人

                     名主 勘兵衛

    飯塚常之丞様

         御役所

                (国文学研究資料館史料館所蔵杉本家文書)

          『東村山市史8 資料編近世2 p469』(意訳 ブログ作者)

 

 原文には「畑田成」「田畑成」「立返り」の言葉が出て、読みにくいのですが、意訳しました。文意から東大和市周辺の新田開発地域はこの当時、水不足で生産性が低下していたことが推察されます。そして、田が畑になってしまっているところ、畑を田に変えられる可能性のある場所などが推測されます。砂ノ川(現・空堀川)や前川(東大和市域では、二つ池から武蔵大和駅前を経ている)周辺で畑を田に変えるとの指摘も勾配や水位を考えると意外なアイデアかも知れません。

 

 この願いは叶わなかったようで、ついに野火止用水には多摩地域に分水口は設けられませんでした。野口村の名主が願い出ていますが、文書が写しかも知れませんが、東大和市後ヶ谷村名主宅に残されていることは、周辺の村々が相談し合っていることが推定できます。
 野火止用水に関し見逃せない文書として紹介します。




江戸海道(江戸街道)追い剥ぎ事件(安政6年・1859)2012年05月24日 09:48

 東大和市内を通過する新青梅街道は、かって、青梅成木から江戸へ通ずる初期江戸街道の道筋を活かしてつくられています。そして、東大和市内の狭山で分岐して、一部は現在も江戸時代の道筋を残し、途中変化しながらも、田無まで辿れます。

 

 安政6(1859)正月、その江戸街道で追い剥ぎ騒動が起こりました。新青梅街道から、かっての江戸街道に分岐して間もなくの場所「清水前」です。

             画像左端辺りが新青梅街道と江戸海道の分岐点

 

 当時の後ヶ谷村の名主・杉本家に残された『安政六年村用日記』にこんな事件が記されています。

 

一 当正月十一日 朝 五つ半時(午前9時)

 多摩郡岸村名主平兵衛殿組頭源八組に属する 肴屋六兵衛三十四才)が

 江戸表買い出しに行く途中 

 清水村前の江戸海道にて 追い剥ぎ三人 

 酒手を貸し申すべしと罵(ののし)ったので

 三声 呼び声を上げたら 口をふさぎその上 打擲した上

 懐中に持っていた縞の財布金四両一分一朱入り)を奪い取り、

 南の方へ逃げ去った といって

 肴屋六兵衛後ヶ谷村字砂安五郎の隠居のところへ逃げて云うには

 右の次第打擲にあい 歩行出来兼ねるので

 岸村へ通達して下さいと申しくので

 

 早々岸村へは沙汰に及び

 かつ又肴屋六兵衛を呼び寄せ、委細承り糺(ただ)たところ

 右の次第に相違なく、

 一人は二十四、五才

 一人は二十八、九才

 一人は三十二、三才のものにて

 三人とも絹布の頭巾をかぶり、長脇差を帯び 股引 脚絆をはいた旅装姿で

 いずれも美しき身なりであったと申すので

 肴屋六兵衛案内で、場所見届けたところ

 全く 清水前の江戸海道に相違ありません。

 右六兵衛は岸村へ送り返しました。

 この段 廻文を以て お知らせ申し上げますので

 早々 御順達下さり、最期の村より御返し下さい。

 

         以上 後ヶ谷村

                     名主  彦四郎印

 

 未正月十一日 夕方

 

 高木村御両組 奈良橋村 蔵敷村 芋久保村両御組 宅部村

 杉本 清水村

 廻り田村両御組 野口村三御組

 

      右村々

            御名主中様

 『武蔵国多摩郡後ヶ谷村杉本家文書(安政年間)上巻p121』(意訳ブログ筆者)

 

 幕末も安政6(1859)頃になると、長崎、箱舘、神奈川の開港問題、ロシア、イギリス、フランス、オランダ、アメリカとの貿易許可など、対外的な問題が押し寄せ、騒然とした中で、東大和市域の村にも流れ者が往来して、緊張が高まります。今回紹介したような美しき身なりの追い剥ぎが、脇差しをさして江戸街道を歩き、その都度、村人達はホラ貝で招集をかけ、竹槍で対応を余儀なくされています。また、近隣の村々へ情報伝達をして事件を知らせ、怪我をした当事者は村掛かりで送っています。

 

 残念ですが、この顛末がどのようになったのかは、明らかではありません。中藤村の指田日記には

 

 「11日、岸村の肴屋(さかなや)、昼九ッ過ぎ(正午)に高木村前にて、盗賊に金子四両を奪わるる由」

 と記されています。時刻や場所の記述に違いがありますが、情報伝達の面白さを感じます。追い剥ぎの衣装や事件のあったときの対応、村同士の関係が描かれているので紹介しました。

①今回紹介した安政年間の杉本文書は、この度、東大和市郷土史グループ・みちの会の皆さんによる解読・編集、杉本堅治氏の私費による出版で、上・中・下三冊の豪華本となって見事に生み出されました。心から敬意を表し、お祝いを申し上げます。その生まれたての上巻から紹介しました。杉本文書については機会を改めて、紹介します。

 

②「江戸海道」「江戸街道」の区分は、東大和市内では江戸時代の文書に多くが「江戸海道」と表示され、現在は「江戸街道」が使われていることによります。

③図に後ヶ谷村名主宅が2家記されているのは、当時の後ヶ谷村には、狭山丘陵に形成された二つの谷にそれぞれ1名づつの名主が居たことによります。この事件の直接の扱いは南側の名主で、両者協議して対応し、北の谷の杉本家に記録されたものと考えます。


行人塚2012年05月23日 08:50

 

 

 狭山丘陵に姨捨山に近い話が伝わります。昭和19(1944)、小学校5年生でした。都内の八丁堀から戦火(第二次世界大戦)に追われて、疎開という名で、東大和市(当時は大和村)の狭山に引っ越して来たときのことです。狭山田んぼ(廻田谷ッ めぐりたやつ)が第一小学校への通学路でした。気楽な一人住まいだったのでしょう、ひ弱な疎開っ子に心を寄せてくれたのか、学校の行き帰りに声をかけてくれるおじさんが居ました。


 そのおじさんからいろいろ聞いた話の一つが「行人塚」です。大根飯に種がら芋が主食で、いつも腹を空かせていた子ども心に、この話は云いようもない深い印象を植え付けました。それでも、怖い物見たさで、まだ、厳重ではなかった貯水池の柵をくぐって現地に行きました。落ち葉に埋まった塚に出会って、ぎょっとして、おじさんの所にも寄らず一目散で家に帰ったことを思い出します。昭和50年代になって、公民館活動から郷土史の研究に入った「みちの会」が次のように採録して下さいました。

 

「行人塚(ぎようにんづか)

 

 湖底に沈んだ村の南側に続く狭山丘陵の中に、大筋端という所があり、その山の中に塚がありました。村の人びとはこの塚を「行人塚」と呼んでいました。

昔、ここは足腰の立たなくなった老人や、行きだおれの病人達が、静かに死を待つ場所であったという言い伝えがあります。

 

江戸時代まで、ここには風化された人骨があったとか、夜など死人の怨念が人魂になって飛ぶのを見たとか言う人もいたそうです。

 

いつ頃のことかさだかではありませんが、元禄の頃といわれていますが、一人のお坊さんがここを通りかかり、あまりに悲惨な様子を悲しみ、里人達にその供養をたのみました。

「私が打つ鉦(かね)の音を聞いたら、里人よ山にのぼってきて死体をねんごろに葬ってほしい」と。

 

 それからというものお坊さんの打つ鉦の音が山合いにひびくと、里人達は山に登って死人を手厚く葬るようになりました。

 

 それから誰いうとなく、この塚のことを、「行人塚」と呼ぶようになったそうです。

この話は親から子へ、子から孫へと言い伝えられてきたのでしょう。明治になってからもまだ人魂が出るとか言って、あまり人が近寄らなかったようでした。

現在でも行人塚と思われる塚が、下貯水池の南側中央あたりにそれらしい形で残っています。

                    『東大和のよもやまばなしp206



 元禄の頃(16881704)、この地域は「後ヶ谷村」と呼ばれ、承応4年(1655)に開削された野火止用水めがけて、狭山丘陵の南に広がる武蔵野の原野を懸命に新田開発をしていました。新田と云っても畑です。元禄は、丁度、堀際、堀端まで開発が進んでいた頃です。また、元禄13年(1700)には、将軍綱吉が進めた中野犬小屋の犬が溢れて、その養育に村人達が当たっていました。厳しい生活があったのかもしれません。

 

 「いつ頃のことかさだかではありません」と語られるように、或いは、時代が下りますが、天明2年(1782)の大地震、翌天明3年の浅間山大噴火を契機とする大飢饉で、飢え人が出たときの反映かとも思われます。



東大和市最古の馬頭観音2012年05月22日 14:02

東大和市内最古の馬頭観音

 馬頭観音は、道筋に立って、道行く人々の道中の安全を見守っていました。東大和市内には20基が確認されています。文字だけを刻んだもの、馬の一部を頭に乗せて怖い顔をして、手が何本もあるものなど、いろいろあります。よく見ると、手には剣や鏡を持っていて、「一体、何じゃ」と不思議な気持ちになります。

 広辞苑では「馬の保護神として、特に江戸時代に広く信仰された」とし、日本歴史大事典では「馬の走る迅速さや物を食べ尽くす特性が、無明煩悩(むみょうぼんのう)や障がいを滅尽させる力を持つとされ・・・」と解説します。仏教的にはさらに奥深い意義を伝えますが、東大和市内には、素朴に馬を弔ったものから「天下泰平、五穀豊穣」と村中でまつったものまで、多種多様な馬頭様が居られます。ほとんどが、元あったところから離れていますが、そのふる里を思い浮かべながら訪ねるのが楽しみです。

 

 今回は、東大和市内で最も古い馬頭様を紹介します。

 板碑型の石塔、高さ89㌢、幅29㌢、奥行き22㌢。

 正面中央に文字で「馬頭観世音菩薩」、左に「天下太平」、右に「日月清明」

 左側面「武州多摩郡 内堀村中 願主 内堀金左衛門」

 右側面「寛政三辛亥年四月吉祥日」と銘が彫られています。

  この馬頭様は、現在、奈良橋の庚申墓地に遷されていますが、村山貯水池の湖底に沈んだ「内堀」に祀られていました。当時、東大和市域の村々では、年貢が金納であったこともあり、農業の合間をぬって、江戸市中に炭や薪、野菜などを納めに行って駄賃を得る「農間稼」(のうまかせぎ)が盛んに行われていました。農家の半数以上が馬を持って居て、大事にされていました。このようなことから、江戸への道筋に、この馬頭様がまつられたと思います。

  もう一つ大事なことがあります。「内堀村」の刻まれていることに注目です。これまでの東大和市の歴史では、「内堀村」という村は記録されていません。この地域は、中世に遡る御霊神社の言い伝えを持ち、地域名として内堀は使われました。しかし、「内堀村」として独立した村名を残しません。一時、「後ヶ谷村」(うしろがやむら)、「宅部村(やけべむら)に属していました。その中で、村人達は、敢えて内堀村中」を名乗ったようです。村人達にはそれだけの思いがあり、これから研究して明らかにして行く必要性を痛感しますただただ、馬頭様の像が風化して村名が滅することのないように祈ります。「後ヶ谷村」「宅部」については、長くなりますので、別に紹介します。

赤っ風2012年05月17日 11:41

                      玉川上水駅北口

                「赤っ風」(東大和市モニュメント)

 西武拝島線玉川上水駅を北口に降りてすぐ左を見ると、交番と階段の間に、東大和市のモニュメント「赤っ風」があります。場所が奥まって、あまり関心が寄せられていないようですが、東大和市の在りし日を伝えて、大好きです。 

                   像のに市の説明板があって

 

 『 「赤っ風になっちゃうかな」春先強い季節風が吹いてくると、村の人は気がかりでした。

 大正の頃、桑畑や、茶畑が続いていた東大和市では、春先の強い季節風が吹いてくると土ぼこりで空が真っ赤になり、あたりはなにもみえなくなるほどでした。

 この強い風が吹いてくると農家の家の中は土が一寸(三センチメートル)も積もるほど、土ぼこりのひどい所でした。この風を「赤っ風」といいました。
 赤っ風が吹く頃つむじ風も起こりました。畑でつむじ風に出会うと、地面にかじりつくようにして、つむじ風が通り過ぎるのを待ったそうです。

 ところが、この赤っ風を心待ちにしている人たちがいました。待望の赤っ風が吹いてくると、畳二畳分の大凧を原に運び、大人が三人ががりで上げたそうです。

 また、赤っ風の吹いた後の畑で石のやじりがよく見つかりました。
 静かだった村が町になり、家が建ち、畑がなくなった現在でも、春一番の吹く頃は、やはり土ぼこりが舞い上がります。

                   ―東大和のよもやまばなしから―

 

 この作品は赤っ風をイメージし東大和市美術工芸品設置事業の一環として制作したものです。

                                      平成四年度制作

                           飯塚八郎作 東京都ふれあい振興事業』

 

 と記されています。

 江戸時代、玉川上水、野火止用水がつくられた頃(1653~1655)です。狭山丘陵の麓に住む村人達はケンメイに南に広がる武蔵野の原野を掘り返し、用水の縁まで一面の畑にしました。水田はなくて、全て畑ですが、一般的に新田開発と呼ばれます。

 台地の土は関東ロームですので、風に吹かれて赤く舞い上がりました。「神棚でゴボウがつくれる」と少し大げさに伝えられる位で、今のように家が建ち並ばない昭和20年代には、まだこの現象に見舞われました。

 

 江戸時代を通じて生産性は低く「下下畑」に位置づけられていました。落ち葉や原の草で作った堆肥では作物が育たないので、厳しい収入の中、やり繰り算段して糠(ぬか)や干鰯(ほしか)など、お金のかかる肥料を使わなくてはなりませんでした。その苦労が偲ばれます。

 今ではすっかり宅地化が進み、モノレールも走って、そのかげに身を潜めるようにモニュメントは立っています。愛想もなく、ぶっきらぼうですが、この姿、愛おしくて仕方がありません。
         200639日、市街化された「現在の赤っ風」が舞いました。 


            モニュメント「赤っ風」は東大和市の南端にあります。